家族のゆくえ【吉本隆明】

家族のゆくえ


書籍名 家族のゆくえ
著者名 吉本隆明
出版社 光文社(207p)
発刊日 2006.2.23
希望小売価格 1400円+税
書評日等 -
家族のゆくえ

太宰治の「家庭の幸福は諸悪のもと」という言葉から本書は始まる。吉本が家族論を記すにあたってこの言葉から始めるのはなかなか興味深い。何故なら、昭和43年に出版された吉本の「共同幻想論」の中で、共同幻想(社会)・対幻想(家族)・自己幻想(個人)という三つの側面から社会を構成する観念としての、共同幻想を解き明かしたのだが、その筋書きの中では「対幻想」は「共同幻想」と「自己幻想」の狭間を解明するための糊しろとして存在していたように当時は理解していた。

学生生活の真只中で接した「共同幻想論」を今回、読み直してみた。所々に赤ペンで引かれている傍線部分からは、明らかに「社会」と「個」という問題に対してなにかを読み取りたいという意図で読んでいたことが良く分かる。あの社会的に騒然としていた時代に生きる20歳の学生だった評者には「家族」という観念にとても思いはせるゆとりも、意識もなかったということかもしれない。本書はこの「共同幻想論」の中の対幻想(家族)に焦点を当てて吉本自身の生きてきた生活時間・時代に沿ってあらわしている。

いわゆる、発展心理学的な区分ではあるが、人生を次の5段階に分けて述べている。「母と子の親和力(乳幼児期)」「遊びが生活のすべてである(少年少女期)」「性の情操がはいってくる(前思春期・思春期)」「変容する男女関係(成人期)」「老いとは何か(老年期)」。こうした区分だけでは十分でないとの考えから各段階の移行期が重要であると指摘していることや、乳幼児期には「胎内7-8ヶ月からの胎児」の期間を加えること、老年期に死を除外するという考え方が吉本流発展段階説である。

彼の家族論の原点は共同幻想や自己幻想とまったく異なった対立的矛盾を含む関係として対幻想を位置づけていることにある。「家族」(対幻想)は信仰や法律や国家や社会などといった「共同幻想」と本質的に異なり、二者択一の場面では矛盾するし、息子や娘がその「家族」を捨てて信仰の道を選ぶこともあるわけだから、個人にもとづく「自己幻想」も「対幻想」とは異なったレベルにある。こうした「対幻想(家族)」のベースである親子関係のキーワードとして、特に母親の役割について強く指摘している。一方、男の存在の希薄さがあまりに強く、どうも気にはなる。

「他の動物と違って人間は、独立するまでざっと二十年ほどの年月がかかる。母の胎内での十か月、乳幼児の数年間の保管、そして幼少年少女期、前思春期などを経て、思春期を終えるまでの十数年の歳月。これだけの年月を親に見守られながら家族とともに過ごすのが普通だ。・・この期間における両親、とりわけ母親との接触の仕方がその人の生涯の性格や人間性を決定する・・・・親子関係はいうまでもなく子供が生れるところからはじまる。身体的な性の関係から子供が生れると、そこから親子という延び方がはじまる。そして子供が親になり子供を生むと、さらに親子関係が延びてゆく」

この時間軸の縦の延びこそが、他の概念である「共同幻想」・「自己幻想」の二つと「対幻想」が本質的に異なると言うのだ。子が成人となり親になる。立場はどんどん変わる。しかし、その時間軸の担い手は、母親と子供、とくに娘との親和力の強さだと指摘している。

こうした女性が支える「対幻想」の現状の問題点の一つとして生涯出生率の低下が引き起こす社会的問題を吉本はこう読み解く。

「つまり「男女同権」という旗を高々と掲げて、「結婚して出産するなんてわずらわしい」「結婚なんかしなくても経済的に自立できればそれでいい」こうした考えが蔓延してきたことである。・・・・こうした流れは生涯出生率の低下だけでなく、もっと重要な問題にかかわっている。それは子供の性格形成、こころの成育にかかわる問題だ。・・・子育ての勘所は二ヶ所しかないとおもっている。そのうちの一ヶ所が胎内七~八カ月あたりから満一歳半ぐらいまでの乳児期。もう一ヶ所は「少年少女期」から「前思春期」にかけての時期だ。この二ヶ所で母親あるいは母親代理が真剣な育て方をすれば、まず家庭内暴力、桁外れの少年殺傷事件のような深刻な事態には立ち至ることはない。・・・この時期の子供には母親の愛情をたっぷりと注がなければいけないのに、肝心の母親が「面倒だ」とか「厄介だ」という思いで赤ちゃんに接したとすれば、もうあとになって取り返しのつかないような悪影響が出てしまう。・・・母親のこころの状態は全部子供のこころに刷り込まれるんだと考えたほうがいいとおもう。・・・・同級生を刺してしまったというような事件は、親の問題だとおもう。・・親がいけないといいたいのではなく、そういう事態に立ち至ってしまったことを含めて、それは親が人格失格だというほかないといいたいのだ」

この時期、母親と子供の自然な係わり合いの中で一種の精神的な免疫の「壁」のようなものがつくられると主張もしている。この「壁」の高さでなにか衝撃的に辛いことがあっても耐えられ、衝撃が壁を越えて、こころの中心を直撃して異常をきたすことはない。親が本気になって子供をかまっていれば、自然にそういう壁ができる。その壁をつくれるのが母親だという。母親の責任をそこまで言い切るなかで、どう子供と向き合い育てていくのか。この点は吉本自身の反省を含めながら、子供にとって遊ぶことの重要性を指摘している。

「少年少女期は・・「遊ぶこと」がすなわち「生活のすべて」である生涯唯一の時期だ。・・・
わたしも子供を公園で遊ばせたことはよくあった。ただし、大きくなってから、こんな文句をいわれたことがある。――「小さいときは公園へ連れて行ってよく遊ばせてやったじゃないか」といったときのこと、「公園で遊ばせてくれたっていうけどさ、遊んでもらった覚えはないよ」と。これはショックだった。・・子供が楽しそうに遊んでいるから、けっこうなことじゃないかとおもって、自分はいい気になって本を読んでいたわけだった。ところが彼女たちにすれば、わたしにかまってもらいたかった。わたしにもいっしょに遊んでもらいたかったわけだ。・・・」

吉本隆明をして大反省の子育てである。同時に、自分自身の子育てを思うとそうした反省にはドキリとさせられてしまう。しかしながら、二人の子の母親となったわが娘を見ていると良くぞまともに育ってくれたと感謝する他はないし、吉本の言うことが正しければ、愚妻の子育てがうまくいったと言うことか。最終章の「老いとは何か(老年期)」は吉本にとっての「今」であるので客観的や分析的というよりも主観的であり、この部分に関しては「あなたの意見はそうですか」という、いささか淡白な受け止めになってしまった。10年後にまたこの部分を読みたいと思う。(正)

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