皇后考【原 武史】

皇后考


書籍名 皇后考
著者名 原 武史
出版社 講談社(656p)
発刊日 2015.02.04
希望小売価格 2600円
書評日 2015.04.17
皇后考

巻頭にエピグラフとして折口信夫「女帝考」から取られた一節が置かれている。実在を疑われる神功皇后(じんぐうこうごう)について書かれた文章で、「皇后とは中つ天皇(なかつすめらみこと)であり、中つ天皇は皇后であることが、まずひと口には申してよいと思うのである」というものだ。

中つ天皇というのは折口によれば「神と天皇との間に立つておいでになる御方」で、神の意志を聞いて天皇に告げる仲介者のこと。記紀には皇后、妃などと記されていると折口は言い、その例として神功皇后や飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)を挙げている。

著者の原武史は先ごろ折口信夫について書かれた本を書評しながら、「女帝考」についてこう書いていた。「折口は…同時代を生きた…女性を意識していたのではないかと思いたくなる。その女性とは、大正天皇の妃で、折口が中天皇と見なした神功皇后に強い思い入れをもち、折口の最晩年に当たる1950年と51年の歌会始で相まみえた皇太后節子(さだこ)(貞明皇后)である」(朝日新聞、2015年1月25日)。

本書がタイトルやエピグラフからして折口を意識していることは明らかだ。だからこれは記紀や琉球王権の研究を踏まえた折口の「女帝考」に対して、近代政治史を専攻する者からの、折口の仮説を実態に即して解明するいわば返歌であるだろう。

ここで触れられているのは明治天皇の皇后・美子(昭憲皇太后)、大正天皇の皇后・節子(貞明皇后)、昭和天皇の皇后・良子(香淳皇后)、現天皇の皇后・美智子の4人の皇后。なかでも中心になるのは大正天皇の妃で昭和天皇の母である節子だ。原には『大正天皇』(朝日選書)、『昭和天皇』(岩波新書)という面白い著書があり、どちらの本でも貞明皇后は影の主役といった位置を占めていた。この本では原は、宮中という秘密と謎の多い場所に存在した影の主役に正面から迫っている。

原は皇后という地位について、こう書く。天皇は「万世一系」の血によって正統性が保証される。でも皇后は人生の途中で皇室に嫁ぐわけだから、皇后とは何かという葛藤に苦しめられ、自らのアイデンティティをなんとか探さなければならない。その場合、実在するかはともかくモデルになる存在が二人いる。

ひとりは神功皇后。仲哀天皇の妃である神功皇后は天皇の死後、後の応神天皇の摂政として70年近く国を統治し、神託によって朝鮮に出兵したとされる(「三韓征伐」)。神功皇后は西日本では安産の神として民間信仰があるように「母」の側面もあるが、明治以後の教育では外国に出兵して勝利した「武」が強調された。

もうひとりは光明皇后。聖武天皇の妃で、天皇とともに深く仏教に帰依し、悲田院や施薬院をつくって貧者やハンセン病患者、孤児を救済した。神功皇后の「武」に対して、光明皇后は「慈母」のイメージを持つ。

明治から昭和までの三代の皇后は、いずれも「武」と「慈母」の両方の側面を持っていたが、その置かれた立場や時代状況によって、どちらかの側面が強く出る。

明治天皇の后・美子は日本赤十字社を支援したり、病院訪問、養蚕・製糸の奨励、女子教育の振興など「仁慈」の側面を強調する一方、船酔い体質で軍艦に乗るのを嫌った明治天皇と対照的に海軍好きで、天皇に代わって軍艦の進水式に臨席したりもしている。昭和天皇の后・良子は戦争期には傷病兵の慰問や病院、授産所、保育館を視察し、「質素倹約を心掛けて『臣民』の模範」としてふるまった。二人の皇后は「つくられた伝統」である国家神道には内面の拠りどころを求めなかったようだ。美子は日蓮宗に傾き、良子はキリスト教が弾圧された戦中もキリスト教の講義を受けていた。

なんといっても興味深いのは嘉仁(大正天皇)の后・節子(貞明皇后)である。嘉仁は明治天皇と側室の間に産まれた子だったが、このころ西欧列強の社会では一夫一妻制が定着していた。列強に伍するためにも皇室で一夫一妻の形を整えることが求められ、しかも嘉仁が病弱だったことから健康な子を産める女性として選ばれたのが九条家の節子だった。とはいえ嘉仁の周囲には200人の女官が住み込んでいる。節子は一夫一妻制のモデルを演ずることを強いられながら、次々に女官に手をつける嘉仁の「御癖」に悩まされた。やがて懐妊した節子は「御気色勝れやかならず、御泪ぐみ」、そんな孤独のなかで観音菩薩への信仰を深め、神功皇后の事績に目を開かされていく。

嘉仁が即位し節子が皇后となった大正初期、皇后は東京帝国大学教授で「神ながらの道」を提唱する筧克彦の講義を聞くようになって、自らをアマテラスや神功皇后に重ねるようになる。それは天皇の病状が深刻になるにつれ、また国際情勢が切迫してくるにつれ激しくなっていったようだ。その過程を原は皇后の和歌(原曰く、ツイッターのつぶやきのようなもの)を引用しながら読み解いている。

 大みたま吾が身に下り宿りまし 尽すまことをおしひろめませ

「大みたま」とは神功皇后の霊である、と筧が皇后の和歌を解説している。節子はアマテラスや神功皇后の霊と一体になっていた。

その一方で皇后節子は長男の裕仁(昭和天皇)ではなく雍仁(秩父宮)を溺愛した。裕仁は皇太子時代に訪欧して英国王室に親しんで、帰国後は日常生活を洋風に改めたり、女官制度を改革したりした。このことは節子と裕仁の溝を一層深めることになる。

即位した裕仁は、宮中祭祀に熱心でなかった明治天皇や大正天皇に比べると、自らの手で宮中祭祀を行っていた。しかし節子の目には、それも上辺だけのものと映ったようだ。節子は元老の西園寺公望に対し「真実神を敬せざれば必ず神罰あるべし」とまで言い放っている。

裕仁天皇と良子皇后の間になかなか男の子が生まれなかったこともあって、節子皇太后は秩父宮を皇位に即けたいのではないかとの噂も流れた。事実、秩父宮即位をめざす秘密結社の桜会が生まれ、秩父宮の周囲には田中光顕、徳川義親、真崎甚三郎、北一輝らの有力者が集まった。だから真崎や北が関わった2.26事件には秩父宮擁立の宮廷クーデタという側面もある。

日米が開戦し、戦況が絶望的になった1945年になっても、節子皇太后は「どんなに人が死んでも最後まで生きて神様に祈る心である」と神に勝利を祈っていた。皇太后に敗色濃い戦況を報告しなければならない前夜、天皇は緊張から「御気分悪しく」「御嘔吐」までしている。昭和天皇にとって、支配的で神がかった母の存在がどれほどのプレッシャーだったかが伺える。天皇が戦争終結を決意した後になっても、皇太后の意向を受けてだろう、神功皇后を祀る福岡・香椎宮に激烈な言葉で戦勝を祈願させている。

節子皇太后の存在は、戦後も昭和天皇の上に覆いかぶさっていた。敗戦翌年の46年には天皇退位論が盛んになり、皇太后も「しかるべき時期を見て決行さるることを可」と言っている。その場合、裕仁天皇に代わって未成年の昭仁皇太子が即位し、皇太后が愛する秩父宮か、病気の秩父宮に代わって高松宮が摂政の地位につくことになる。原はその可能性だけでなく、皇太后自身が摂政になる可能性すら考えていたのではないか、と書いている。

折口信夫の「女帝考」はその1946年に発表されている。折口がこの論文について「慎重の上にも慎重を把つてゆかねばならぬ題目である」と書き出しているのは、冒頭に紹介したように折口がこの論考に節子皇太后を重ねているとすれば納得がいく。皇太后は1951年に急逝したが、戦後生まれの小生に皇太后生前の記憶はまったくない。長いこと歴史上の存在とばかり思っていた。本書を読んで最大の驚きは、そのような存在が生々しい肉体と精神をもって立ち現われてきたことにある。

ところで原は、この長大な本の最後の数ページで美智子皇后について触れている。「現皇后こそは最高のカリスマ的権威をもった<政治家>」であり「象徴天皇制の正統性は、天皇ではなく、光明皇后をモデルとする皇后によって担われている」とする原は、同時に「象徴天皇制の正統性そのものが揺らぐ」未来の可能性を予言している。原ははっきり言葉にしていないけれど、次世代、次々世代のことを言っているのだろうか。気になる。(山崎幸雄)

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