書籍名 | 考えの整頓 |
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著者名 | 佐藤雅彦 |
出版社 | 暮しの手帖社(288p) |
発刊日 | 2011.11.01 |
希望小売価格 | 1,680円 |
書評日 | 2011.12.10 |
著者はいわずと知れた電通の「CMプランナー」として名を馳せた人物。現在、東京藝術大学映像研究科や慶応大学環境情報学部で教鞭をとっている。慶応大学の授業では「新しい考え方を考えよう」という方針を示しているようだ。映像・アニメーション・脳科学・表現学といった領域をカバーして新しい発想を創るという佐藤の活動の一端は「考える」という点で本書においても貫かれている。佐藤雅彦の名前を知ったのは、NECのCM「バザールでござーる」やNHKの「だんご三兄弟」などの映像表現を通してであり、新しい表現者という認識をしていた。
それだけに本書は「暮しの手帖」に連載されていたエッセイをまとめたものであると知って、「前衛たる佐藤雅彦」と「暮しの手帖」というミスマッチ感にいささか戸惑った。評者にとって「暮らしの手帖」は終戦直後の婦人雑誌の一翼を担い家電製品テスト、家庭料理レシピなどを売り物にした高学歴主婦向けの実用雑誌というイメージだった。
とはいえ、そうした「暮しの手帖」の持つブランド・イメージに引きずられることもなく、佐藤の自由で新鮮な発想が表現されていることは間違いない。「この章は、雑誌『暮しの手帖』に掲載されたことを特に踏まえた上でお読みください」という注記が添えられている章もあるが、これも計算づくの仕掛けと理解すべきで、そんなところも楽しみながら読んでいくのが本書の正しい読み方だ。
27章で構成されているこのエッセイは2007年から2011年5月まで連載されていたものであるが、その時間経過による内容の鮮度劣化をまったく感じさせない。それは、普段気づかないものの、言われてみればわれわれの日常生活の中で身近に存在している不可解な事象を取り上げていることによるのだろう。全てのテーマを並べてみると著者のクリエーターたる独創的な発想とともに視野の広さ・深さを感じさせられるところが面白さであり、加えて、そこに流れる論理・原理・心理といった深層の納得感(なるほど感)が面白さの源泉である。
例えば、わたしたちがオルゴールの立場になって、その機能を考えて見る「・・と、オルゴールは思い込み」とか、「ものは勝手になくならない」と題する人間の物体存在や移動感覚についてイラストを使いながらの実験、「差という情報」と題して、「冷たさ」という温度感覚を「濡れている」と錯覚する心理、プレゼントというのは通常は純粋な「増分」を楽しむものだが「なくしたと思っていたものが戻ってくる」ことによる「増分」を楽しむクリスマスプレゼントといったテーマが並んでいる。一章一章が話題のつまみ食い的小話ではなく、しっかりまとまっているのは「暮しの手帖」が月刊誌でないことの有利さなのかも知れない。狙いを著者自身はこう言っている。
「日常には、無尽蔵と言っても良いくらいの不可解な事が潜んでいます。私たちは、それらを気にしないことで、うまく生活でき、時間の流れにも振り落とされずについていくことができているとも言えます。・・・その日常という混沌の渦の中に見え隠れしている不可解さ、特に新種の不可解さを取り出し、書くという事で整頓してみようと想いました。すると、そこには時として、ものごとを成立させている原理が静影のように横たわっていることがありました。」
「新種の不可解さ」に気づくことと「書く」というプロセスによる「原理の掘り起こし」がキーワードだ。それだけではなく、視覚に訴える技法の巧みさやイラストの活用はお手の物であろうし、本書においても、論旨を判り易くする効果として上手く視覚も利用しているのは言うまでもない。「暮しの手帖」編集長がこのエッセーに対するコメントを寄せている。
「この文章には、ものごとの輪郭を辿っていく面白さがあります。突然ものごとの核心に行くのではなく、その輪郭を歩きながら、考えていることを文章にしているように感じます。」
「肉ジヤガ名人になる」や「台所仕事100のコツ」といった「暮しの手帖」的記事の隣りにこうしたエッセイが並ぶのは想像し難いのだが。こうしたコメントを読むと超実践的な婦人雑誌であった「暮しの手帖」も変化しつつあるのかと感じる。
多様なテーマの中で、ほのぼのとした「悪戯」や「たくらみ」に関する文章で気に入ったものがあった。その一つ、「たくらみの共有」と題して中学時代の経験を紹介している。父兄参観日の前日のホームルームで「これ判る人って問題を出さないでほしい」という意見が生徒から提起された。手を挙げられないと来ている親に恥をかかせるという思いだ。そこで先生はこんな提案をしたという。「じゃあ、わかってもわからなくても手を挙げろ。ただし、本当にわかる人はパーを、わからない人はグーを出せ」。かくして、父兄や見回りの校長、教頭が目を見張るほどの活気あるクラスが当日出来上がった。「答えがわかる者もわからない者も平等に愉快だった。あの一体感は幸せに溢れるものだった・・・」
多分この学級のクラス会は何年経ってもこの話題で盛り上がるのだろうと想像する。担任だった先生も一緒になって、その幸福感は人生の中で永遠に続くのだろう。たくらみを共有した絆は強い。
同じジャンルでもう一つ。これは子供たちに対して著者がいたずらを提案しているもの。 「お父さんの背広が入っているタンスをそっと開けて、どれかの背広の胸ポケットにメモカードを入れておこう。そのカードには、お父さんへのメッセージやお願いを書いておこう。お父さんがそれを見るのはいつのことかわからないけど、いつか見てくれることを期待して、そのワクワクをそっと自分の胸にしまっておこう。ある朝、ひとりのサラリーマンがぎゅうぎゅうの満員電車で、ふと自分の胸のポケットに見覚えのない固いカードがあるのを見つける。狭い車内で。それを取り出すと、たどたどしい字でたどたどしい文章が書いてある。『おとうさん、こんど、やきにくいこうよ、さいきん、いってないよ。』この未来に向けてのいたずらは、幸せの時限爆弾である。ただし、いつスイッチが入るか分からない。分からない故に、楽しいのである。」
こうした「幸せな時限爆弾」は子供たちだけの独占領域なのかもしれない。だんだん年齢を重ねると、楽しみにする未来も少なくなってくるし、そもそも「いたずら」も許されなくなってくる。もう自分自身に「いたずら」を仕掛けるしかなさそうだ。それが「広辞苑第三版2157頁」と題する章になっている。面白いから、読んでほしい。
ほのぼの系でないテーマとして、「敵と味方」というおどろおどろしいタイトルの章があった。 「ひとは山奥や戦場で突然出くわした見知らぬ者のどんな情報を知りたいかというと、それは名前や所属などではなくただひとつ『敵か味方か』である。・・・あるとき何十年振りですという人に会ったがまったく思い出せないという経験をした。・・・その時『思い出せないことを残念に思わない自分』が存在するという妙な気持ちに気づいた。・・・どうも、自分がその人と最初に会ったときに何かしらの理由で味方ではないと感じると、無意識に『敵』という記憶カテゴリーに入れてしまっているのではないかと気付いた、・・・私たちは野生から遠い文明社会に住んでいる、しかし、私たちの内にある生存のためのプログラムは、思わぬ野生を含んでいて、しかもそれが立派に機能している・・・」
そういえば、段々と思い出せないことが多くなって来ている。「敵」が多くなっているとは思いたくない。しかし、長らく生きてきたので「思い出せないことを残念に思わない」対象が私の心の内に何人か居るのも否定はしない。(正)
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