書籍名 | クモのイト |
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著者名 | 中田兼介 |
出版社 | ミシマ社(200p) |
発刊日 | 2019.09.26 |
希望小売価格 | 3,200円 |
書評日 | 2020.01.15 |
「クモのイト」という言葉から「蜘蛛の糸」と考えるのが普通だと思うが、本書タイトルの「クモのイト」とは「糸」と「意図」という二つの意味を持たせている。「蜘蛛の意図」となると、なにやら論理を超えた物語の感じさえ帯びてくるのが「クモ」の「蜘蛛」たる所以かもしれない。
8本足の節足動物で網を張って捕食するといったインパクトの強い生物であり、家の守り神として考えられてきた文化もあって、その根底には身近な生き物という感覚があるのも事実だが、いかに身近であっても「クモ」が大好きという人にはめったに出会うことが無いという著者の指摘も納得できる。例えば、生後半年の赤ん坊でも、クモの絵を見せると瞳孔が開くストレス反応が起きるという研究が紹介されていて、そもそも人間とクモの相性の悪さは根源的なもののようだ。
著者がクモに興味を持って研究を始めた理由を「賢さ」と「複雑さ」と言っているが、それだけに、読み進んで行くとまさにクモの意図を解き明かす事例が数多く紹介されている。第一章のクモと人間の関係に始まり、クモの網に関する考察、繁殖・生存戦略、クモの個性、その未来について等が語られていてクモへの興味を呼び覚ますには十分な一冊である。
人間がクモを利用してきた歴史のうち、「糸」を利用してきた歴史が永いのは想像がつく。昔からニューギニアではクモに網を張らせて魚を獲っていたり、18世紀のフランスでは手袋や靴下をクモの糸で編んでいたとか、19世紀のロンドンでは「クモの糸で服をつくる」という挑戦がされたり、20世紀末にはクモの遺伝子を他の動物に移植して、大腸菌や酵母などを利用して人工のクモの糸の製品が研究されてきた。しかし、あまり成功したと言う話も聞いたことが無いというのが実感である。
一方、クモの糸そのものを利用するのではなく、クモが正確に網を張る能力があることを活用して、精神安定剤や覚醒剤などの薬物を与え、クモがつくる網の変化を調べて薬物の効能実証研究をしているという。また、1973年には三匹のクモが宇宙に飛び立ち、無重力状態でクモはどんな網を張るのかという研究がなされている。地球上ではクモは一見円形でも、詳細に見るとエサが沢山獲れるように下方の目を細かくすることで落下してくるエサを捕獲し易くしている。こうした地球上では非対称の網を作るクモも無重力空間では一日目は戸惑っていたが二日目からは円い対称形の網を張ったという結果だけを聞くと、そうだろうなと納得してしまうのだが、それよりも、早期の宇宙生物実験にクモが選ばれたのは、クモはハエを一匹食べるだけで、ほぼ一か月絶食状態で生き続けられるという点にもあったようだと知ると、一日に三食も食べる生活をする人間の不便さ・非効率さが痛感されるというものだ。
クモの究極の食の特性として共食いが特徴的と言われる。その効率性を求める生態には驚くばかりである。クモは、子作りのたびに交接するのではなく、メスにはオスの精子を受け取り、貯めておく袋を持ち、産卵の準備が整ったところでメスは保存した精子を使うという。従って、クモはオスとメスが一緒に暮らす必要もないので、オスはもたもたとメスの近くに居るとメスに食われてしまう。栄養バランス的には同じ種類のクモの身体は自分とよく似た成分で出来ているので食物としては大変効率的である。
また、クモの子供が世の中に出てきたときには母グモは死んでしまっているのが普通で、一人で生きて行かなければならないのだが、その子育ての究極の姿として「母親食い」だったり、「栄養卵」といって子を残すためでなく、子のエサにするための卵を産んでおくといった独特な戦略こそ確実性を確保する戦略なのだろう。
クモの最大の特徴の「糸」と「網」は重要な点だけに、本書では多くが語られている。糸を紡ぐことのできる昆虫はカイコはじめ沢山いるが、何種類もの糸を目的に応じて作ることのできる生物はクモが最強。クモは捕食のため網を作り、捕まえたエサを糸で巻き上げ、産卵した卵を包み、移動の命綱にする。バルーニングといわれる、糸を使って風に乗り遠くに飛んでいくという独特な移動能力を持っている。
網を構成するたて糸と横糸は各々異なった性質を持っている。たて糸は同じ太さなら鋼鉄と同じ強さだし弾力性もある。このためたて糸はエサの動きを止める役割を持ち、横糸は糸の周りにネバネバとした物質が一定の間隔で集まり粘球となっていて、エサを絡めとる役割を持っている。そんな違いが有るのかとつくづく感心してしまうのだが、網に関するもう一つの驚きは、クモは毎日網を張り直すという生態。もったいないように思うのだが、糸はタンパク質で出来ているので、回収して食べて消化することが出来る。従って、分解してできたアミノ酸は新しい糸をつくる原料となり、そのリサイクル効率は90%と言われている。こうした点を含め、クモを理解するためのキーワードとして「効率」という言葉が思い浮かぶとともに著者のいう「賢さ」なのだろう。
どんな生物にも個性があるという研究が進んでいて、クモの中にも攻撃的だったり、のんびり屋だったりという個性差がある様だ。特に、集団で生活するクモの種類では、個性・個体差が大きくなるという。自分の集団の中の役割を見出して、振る舞い方を違えて行き、その役割に集中するためであり、個体差・個性は分業に効果的であり、分業によって個性の違いが大きくなるということのようだ。こうした集団社会を支えるため常に周りの個体とコミュニケーションをとらなければならないという意味で、クモに限らず、すべての生物でそのために脳は進化し、特に人間の脳は究極に進化したとも言われている。我々の脳は他者とのコミュニケーションのために使われなければいけないのだと思い知らされるが、自分の知力の使い方はそうしたバランス感覚はあまりない。
生態系バランスの観点いえば、生きるための捕食について不穏な未来が紹介されている。それは、今世界中に48,000種類のクモがいて、哺乳類の6,000種と比較してもその多さは圧倒的で有る。加えて、そのクモたちが一年間に食べる虫や生き物の量は全人類の体重に匹敵するという。これは陸上の生態系では最も量が多いと聞くと、生物のバランスの微妙さに圧倒される。
考えてみれば、今までクモをメジャーな生き物として感じたことは無かったと思う。世界各地ではクモを主人公とする神話も多い。その意味では文化的には身近であるのは事実だが、クモ達の「意図」や「戦略」の中に、我々人間を理解するためのヒントが多く隠されているというのも本書からの収穫である。
読み終えて、中島みゆきの「糸」を思い出した。「縦の糸はあなた、横の糸は私」という歌詞を深読みしてしまう。「縦の糸はあなた」とは「男は力で働く縦糸」、「横の糸はわたし」とは「女はエサを絡めとる横糸」と聞こえてしまうのだ。ところで、君は奥さんに絡めとられましたか? (内池正名)
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