新たにみる競馬の地平 歴史学を学ぶ
書籍名 | 競馬歴史新聞 |
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著者名 | 競馬歴史新聞編纂委員会 |
出版社 | 日本文芸社(254p) |
発刊日 | - |
希望小売価格 | 1,400円(税別) |
書評日等 | - |
だれかがやるとは思ったが、やっぱり出て来た競馬の歴史本。ただし、これはキワものではなく、競馬以外にも○○歴史新聞として他領域もカバーしようとしている意欲的なシリーズの一冊なり。
参考文献も年鑑類はもちろん野辺好一著「競馬専門誌80年の歩み」(ホース・アイ)早坂昇治著「競馬意外史」(中央競馬PRセター)など多くの競馬文化系に当たり、雑誌・新聞も「馬事時報」(馬政局)、「公営競馬」(ホースニュース社)など変わり種専門誌紙を渉猟している。
序文に「平成10年は「歴史上初の日本調教馬による海外G1制覇」を記念し・・・第一回日本ダービーが行われた昭和7年から平成10年までの67年間は・・・」とあるように、昭和7年から始まる前半は見開き2pだて、1970年(昭和45年)スピードシンボリの有馬記念連覇(洋行帰り、初8歳馬の優勝)から今日までは4~6pだての構成である。全体5章からなる。エポックをたどってみよう。
まずは初年度、今は無き目黒競馬場におけるワカタカ優勝の昭和7年4月24日「東京優駿大競争」(第一回日本ダービー、何と2分45秒2のタイム、なおラジオ中継は天皇賞に当たる帝室御賞典同年4月3日が先)のこの年には、78頭も所有していたが着順疑惑浮上でかの菊池寛が競馬界を引退したことが伝えられている。
左ページは関連・海外ニュースで、ロス五輪で障害飛越金メダル獲得。四歳の3冠レースが確立されて3年目に早くも三冠達成したセントライトは昭和16年、戦後21年からが第1章。昭和23年に、民間団体日本競馬会が独禁法により解散となり国営化され、連勝馬券(単式)導入、場外馬券場(銀座)も開設された。
競馬TV中継が始まったのが昭和28年、翌年に日本中央競馬会法が成立し初代理事長に安田伊佐衛門氏が就任(日本競馬会を継ぐ、ラッパ永田大映社長なども)、日本馬初の海外勝ちはハクチカラのワシントンBH競争でその翌34年、6枠制から8枠制に移行し連複が導入された昭和38年に快速馬2冠メイズイがダービーを制しているが、そのタイムは28秒7で30秒の壁を破ったもの。
その翌年がシンザン3冠、最近JRAは障害をジャンプと言い換え強化を図っているが、中山大障害4連覇の勢いを駆ってフジノオーが海外で2勝も挙げたのは昭和42年。
第2章(昭和45年、ここから4pだて)では、何といっても昭和48年のハイセイコー、競馬が日向に出たと言われた。電話投票のスタートは昭和51年(前年にハイセイコーは引退)だが、昭和53年のテンポイントの闘病は連日一般紙で報じられ、競馬の大衆化が文字通り実現している。
3章(ここから6pだて)は昭和55年から、鎖国競馬から開国を内外に告げたジャパンC第1回は昭和56年で日本の一流馬はそろって討ち死に、初めて同レースに連対を果たしたのは3年目のキョウエイプロミス、初優勝はカツラギエースの昭和59年第4回で悲願達成、その間、ミスターシービーが昭和58年に(この年、日本流の競馬文化を担ってきた寺山修司が死去・47歳)、続く翌59年にシンボリルドルフが3冠を記録している(この年から、短中長距離のG1頂点の番組変革着手、また一日中G1の画期的祭ブリダーズカップが創設されハリウッド競馬場でその第一回開催)。
JRAに負けじ、と公営が初のナイターを導入したのが昭和61年の大井競馬場、この年から交流が一層活発となった、周知の如く異なる形態の競馬運営が存在するのが日本の特徴だが、これにも外圧がかかっている。
ご存じ、国民的アイドル・ホースのオグリキャップ登場は昭和63年、彼は公営笠松競馬出身である。現在の席巻種牡馬サンデーサイレンスが米2冠達成は平成1年、同馬の輸入は世界的話題を呼び日本のまさに絶頂期、平成2年からが第4章、この年オグリキャップが有馬記念で奇跡の復活(6歳)を遂げ人々の感涙を呼んだ、これが彼のラストランなり。平成3年に待望の馬番連勝馬券が導入されいよいよ競馬ブームは頂点に、もはや日常風景に溶け込んだ。
ちなみに、平成11年の日本ダービーのタイムは2分25秒3(ダービータイ記録)、始まりからほぼ20秒約100馬身以上縮まったことになる。そして海外G1制覇、今昔の思い。故人所有の写真を所載するなど全体に丁寧な造り、当時の記事のママ部分がもっと欲しかったが、時に手に触れると、馬券にも冷静さが持ち込める快書。(修)
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