書籍名 | 9条どうでしょう |
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著者名 | 内田 樹・小田嶋隆・平川克美・町山智浩 |
出版社 | 毎日新聞社(200p) |
発刊日 | 2006.3.25 |
希望小売価格 | 1200円+税 |
書評日等 | - |
これは4人の書き手による憲法論、なかでも憲法第9条をめぐる論集である。と書けば、この出だしを読んで早くも身を退く人がいるかもしれない。えっ、ケンポウキュウジョウ? もう、いいよ。あるいは、彼らは護憲派? それとも改憲派? と、性急な答えを求める人もいるかもしれない。
でも、ちょっと待って。これは今まで山のようにある護憲派、改憲派双方からの憲法論議とはだいぶ趣がちがう。第一、この4人のメンツ、従来の憲法論議ではお目にかかったことのない人たちじゃない?
内田樹、フランス現代思想を教える大学の先生。小田嶋隆、IT関係のテクニカル・ライター、コラムニスト。平川克美、IT企業のCEO。町山智浩、アメリカ在住で韓国系日本人の映画評論家。
中心になっている内田樹は、これを読んでいる人なら名前くらいは知ってるにちがいない。このところ、ブログから出てきた有名人がたくさんいるけど、硬派の書き手としてはこの人が筆頭。ブログ「内田樹の研究室」から生まれた何冊かの本を読んだことのある人もいるだろう。
残り3人の書き手は内田が人選したらしいけど、共通点といえば、3人ともホームページあるいはブログを持ってることだろうか。その意味では、ネット世代の憲法論といえるかもしれない。
人選に当たって内田は「護憲・改憲の二種類の「原理主義」のいずれにも回収されない」憲法論を書ける人を選んだと言っている。さらに「メディアから干されても構わない」覚悟のある書き手である、とも(要するに別に定収がある「お気楽な」書き手と、メディアへの露出が少ない「失うものはない」書き手、だそうだ)。
だからこれは、がんじがらめになった憲法論議を今いちど考えなおすための「頭の体操」みたいなものかもしれない。護憲派や改憲派にとっては、自分の考えを別の角度から相対化してみる素材として。敵か味方かを強要するような憲法論議に興味が持てなかった人には、入門編として。ちなみに、僕自身は広い意味での護憲派だと思っている。
4人はそれぞれ身近なところから憲法論を展開しているけれど、ここはやはり内田のものを紹介してみよう。
内田はまず、なぜわれわれは戦力の保持を禁止した憲法第9条と自衛隊の存在を、一方を認めれば他方を否定しなければならない両立不可能な矛盾として受け取ったのか、と問いを発している。彼の答えを先に言ってしまえば、それは病気のせい、しかも日本人が無意識のうちにかかることを望んだ病気のせいなのだという。
制定の経過をたどってみれば、アメリカにとって第9条の最大の目的が、将来、日本が再軍備してアメリカに脅威を与える存在になるリスクをなくすことにあったことははっきりしている。
一方、自衛隊は東西冷戦と引きつづく朝鮮戦争のなかで、東アジアに展開する米軍の後方支援部隊として「目的限定的に」誕生した。
憲法第9条も自衛隊も、当時のアメリカの世界戦略から生まれた。日本の無害化と、その上での再利用ということで、アメリカの国益という視点から見れば第9条と自衛隊は相互に支え合っている。両立することに何の矛盾もない。ところがこれを日本人は形式論理的に矛盾として受け取った。
「厳密には、矛盾として受け取るという病態を選択した。……日本人たちは同一の命令者から出た二つの命令のうちの一方だけを選択的に聴くという仕方で(護憲派と改憲派に)「二極化」することになったのである」
それは日本人が無意識のうちに「多重人格」という病気を発症して心理的危機を回避しようとしたからだ、と内田は言う。心理的危機とは、どのようなものか?
「憲法9条と自衛隊はアメリカが日本を「従属国」化するために選択した政略である。……そのアメリカの政略の首尾一貫性に対応するかたちで日本政府が首尾一貫する政略を立てるとしたら、それは「従者としての安全と幸福のうちに生きる」というものでしかない。……「奴僕」の立場に甘んじる限り、憲法9条と自衛隊の間には何の矛盾もないからである」
「敗戦日本の人々は「奴僕国家」として「正気」であることよりも、「人格分裂国家」として「狂気」を病むことを選んだ。……憲法9条と自衛隊の「内政的矛盾」は、日本がアメリカの「従属国」であるという事実のトラウマ的ストレスを最小化するために私たちが選んだ狂気のかたちである」
でも人は、ただ精神を病むわけではない。病気になることで得るものがある。それを「疾病利得」という。戦後日本は人格分裂を発症することで、結果として「戦後60年間の平和と繁栄」「その間外国のどこの土地でも日本の軍隊が外国人を殺さなかった」という「疾病利得」を得た。
「だから、私はこの病態を選んだ先人の賢明さを多としたいと思う」
と、ここまで内田の論の骨格を抜き出してみたけれど、このエッセイの面白さはそこにだけあるのではない。ディテールもまた、にやりとさせられる逆説やユーモアにみちている。授業でゼミ生の「でも北朝鮮が攻めてきたら?」という質問に答えて、侵略国を侵略しかえし、日本を見捨てるかもしれないアメリカに復讐する未来の「日本第二帝国」の想像図を描いてみせて、こんなふうに言う。
「どう考えても、これほど日本人の「忠臣蔵」的、「総長賭博」的メンタリティにぴったりくるシナリオは存在しない。日本人は「こういうありよう」が心底好きだからだ」
うーむ、「総長賭博」が出てくるか。ということは彼もまた、かつて1960年代東映任侠映画のこの傑作に入れあげた一人なのか。唐傘が舞う雨の墓地に立ちつくす鶴田浩二のいたところ、つまり病気の真っただなかから、戦後日本の病態をユーモラスにまた逆説的に論ずる遙けくも遠い場所まで来たものだなと、一瞬、感慨にふけってしまった。
この内田の論には、「憲法がこのままで何か問題でも?」とタイトルがつけられている。ほかの3人のは「改憲したら僕と一緒に兵隊になろう」(町山智浩)、「三十六計、九条に如かず」(小田嶋隆)、「普通の国の寂しい夢」(平川克美)。
結果として4人とも、いま憲法を変える必要はないという結論にたどりついている。いずれにしても、4人それぞれの論を楽しむことによって、自分の憲法に対する考えをいま一度検討するきっかけとなる刺激を与えられた。(雄)
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