芸能の秘蹟【平岡正明】

芸能の秘蹟


書籍名 芸能の秘蹟
著者名 平岡正明
出版社 七つ森書館(248p)
発刊日 2010.05.10
希望小売価格 2,100円
書評日 2010.06.17
芸能の秘蹟

去年7月に脳梗塞で亡くなったこの本の著者、平岡正明に3度会ったことがある。最初の機会は小生が週刊A誌の書評欄を担当していた1978年のこと。コラムふうな著者インタビュー記事を書くために、『歌の情勢はすばらしい』(冬樹社)を出したばかりの平岡に会いに行った。当時、A誌書評欄の担当は小生ひとりで、どの本を書評に取り上げるかは外部の作家や評論家と相談するシステムになっていたが、著者インタビューについては自分の好きな本、好きな著者を選ぶことができた。だから、自分が読みたい本、会ってみたい著者の本をずいぶん取り上げた。平岡正明もそのひとり。当時、平岡正明のジャズ論に惚れこんでいた。初めて会った平岡正明は短髪、童顔ながら眼光鋭く、握りこぶしを脇に引いて「オス!」と空手の挨拶をされたのが印象に残っている(平岡は極心空手をやっていた)。『歌の情勢はすばらしい』は、山口百恵、矢野顕子、李成愛ら新しい歌謡曲の動きと第三世界革命論をつきまぜたエッセー集。日韓の歌について、第三世界の音楽について、平岡は陽気で明るく、よくしゃべった。

2度目に会ったのは、別の週刊誌J誌の編集者をしていたときで、日本のポップス・歌謡曲の特集をやることになり、『山口百恵は菩薩である』(講談社)という話題本を書いた平岡に原稿を頼みに行った。渋谷の喫茶店で会った平岡は気軽に引き受けてくれ、以後、J誌のコラムに何度か寄稿してもらうことにもなった。

3度目で最後に会ったのはそれから10年以上たった2000年。小生は単行本の編集者をしていた。江戸に関する本を編集し、パブリシティーのために対談を企画して著者に相談すると、『江戸前』(ビレッジセンター)を出した平岡正明と話したいとの希望。

久しぶりに連絡すると、病気したので遠出できない、横浜に来てもらえるなら喜んで、という返事だった。多分、最初の大病の後だったと思うけれど、色つやの良かった顔も少しやつれ、かつてのエネルギッシュな話しぶりはずいぶん穏やかな口調に変わっていた。それでもサービス精神旺盛な平岡らしく、江戸時代をめぐって実に面白い対談に仕上げてくれた。

今から思えば早すぎる晩年となった1990年代から、終生のテーマだったジャズや革命だけでなく、平岡の書くものには「江戸」が前面に出てきた。『新内的』(1990)、『浪曲的』(1992)、『清水次郎長伝』(1996)、『江戸前』(2000)、『志ん生的、文楽的』(2001)、『大落語』(2005)、『シュルレアリスム落語宣言』(2008)、『快楽亭ブラックの毒落語』(2009)、『立川談志と落語の想像力』(2010)……。

『志ん生的、文楽的』などを読むと、東京・湯島の薬屋の息子に生まれた平岡は、小さいころから江戸音曲に囲まれて育ったことが分かる。祖父は相撲や芸人をひいきにしたタニマチ、祖母は下谷黒門町の袋物屋の娘で、山東京伝の煙草屋とも取引のある家だった。伯父の清元の腕は、「師匠の節の乱れを直してやる」ほどだったらしい。

落語少年だった平岡は、ラジオから流れる志ん生や文楽を聞くのを楽しみにしていた。ところが高校時代に落語についての論文を書いたところ、先生から酷評を受けた。それを機に、平岡少年は落語について語り、書くことを一切封印したという。

その封印を、ある時期に平岡は解いた。それが1990年代以後のあふれるような「江戸」ものの奔流になったのだろう。いったん封印を解けば、東京の下町育ちの平岡には江戸音曲の記憶が身体化されていた。今から思えば、それは運命的なものだったように思える。

ところで本書『芸能の秘蹟』は、平岡が毎月、ライブに出かけてさまざまな芸能を論ずる、亡くなる直前まで続けた雑誌連載をまとめたものだ。それがどんなものか、アトランダムにいくつか引いてみよう。

「セシル・テイラー&山下洋輔デュオ・コンサート」「横浜ジャズ・プロムナード」「ホットハウス(行徳)ライブ」「菊地成孔ライブ」「岡本宮之助(新内)ライブ」「金原亭馬生独演会」「快楽亭ブラック毒演会」「玉川奈々福(浪曲)ライブ」「春駒じゅり(民俗芸能)ライブ」「巻上公一コンサート」「吉本大輔(舞踏)公演」「野毛山節シンポジウム」「松井誠(大衆演劇)公演」「小島章司(フラメンコ)公演」

こうながめてると、平岡が終生なににこだわったか、大きな三つのテーマが見えてくる。

ひとつはジャズ。平岡の優に100冊を超える著書のうち、おそらく半分近くがジャズ論・音楽論だろう。小生が初めて読んだ平岡の著書、『ジャズ宣言』(1969)の冒頭の一文は今も鮮明に覚えている。

「どんな感情をもつことでも、感情をもつことは、つねに、絶対的に、ただしい。ジャズがわれわれによびさますものは、感情をもつことの猛々しさとすさまじさである。あらゆる感情が正当である。感情は、多様であり、量的に大であればあるほどさらに正当である。……われわれは感情をこころの毒液にひたしながらこっそり飼い育てねばならぬ。身もこころも知恵も労働もたたき売っていっこうにさしつかえないが、感情だけはやつらに渡すな」

弾むようなリズムと、爽快な断定に満ちた文体。それは以後、亡くなるまで変わらない。ジャズに関する文章はずいぶん読んだけれど、平岡以上にいい耳と映像喚起力のある文体を持った書き手はいないと思っている。

ふたつめは江戸音曲。数十年の封印を解いた平岡の身体は落語に、新内に、浪曲に、次々に反応している。なかでも落語は、次々に著作をものしていた。それも「文楽の語りの向こうに江戸の崩壊を見、志ん生の噺の彼方に黄塵万丈の大陸風景を幻視する」、通の落語論とは違ういかにも平岡らしいもの。現役の落語家では立川談志を、そして破門された弟子の快楽亭ブラックを好んだようだ。ここもまた平岡らしい。

そして三つめのテーマは横浜。晩年、横浜に住んだ平岡は、横浜を愛し、野毛の大道芸や横浜ジャズ・プロムナードといった催しにコミットしていた。もともと1960年代に政治結社「犯罪者同盟」を組織した革命家だから、オルガナイザーとして手腕を発揮した。しかも横浜は、ジャズもR&B(エディ藩)も歌謡曲(日野美歌)も東京と対峙する本場なのだ。

そうした三つのテーマを抱えながら、ジャズや演歌や江戸音曲や落語を聞きに夕暮れの町へ出る平岡の浮き立つような表情が、この本の命だ。2009年7月に亡くなった平岡の、最後の連載が雑誌に載ったのが2009年8月号。亡くなる直前まで外へ出ていたのが、いかにも平岡らしい。彼は書いている。

「一本一本が真剣勝負だった。演者の肉声を評者の肉体を濾過して聴きとり、彼の表現に自分の文章を競わせるためには場のなかに入りこまねばやれず、劇場にたどりつくまでの町の雰囲気になじまなければだめだった。あ、ごめん、言うことが理屈っぽくなったが、俺は楽しんだのだ、町に出て芸能にぶつかる生活を」

平岡正明の人柄と書きものに影響を受けたひとりとして、そのスピリットをほんのわずかでも受け継ぎたいと思う。(雄)

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