グランド・フィナーレ【阿部和重】

グランド・フィナーレ


書籍名 グランド・フィナーレ
著者名 阿部和重
出版社 講談社(204p)
発刊日 2005.2.1
希望小売価格 1400円+税
書評日等 -
グランド・フィナーレ

「グランド・フィナーレ」を、予感の小説と呼ぶことができるかもしれない。事件は、過去に起こってしまった。事件は、未来に起こるかもしれない。過去の事件の結果としてある鬱々と重苦しい日常と、未来に起こるかもしれない事件のかすかな予兆とが重なり合うところに、この小説の現在がある。

「わたし」は37歳。職を失い、離婚して、ひとりで故郷へ戻ってきた。古い木造の一軒家に住み、仕事もなく、実家で食事をさせてもらい、昼日中から町なかを目的もなく歩いている。妻に引き取られた一人娘「ちーちゃん」の思い出の品、「ジンジャーマンのぬいぐるみ」を抱っこしながら。

「わたし」は東京で教育映画の監督をしていたのだが、仕事で出会った少女をロリコン雑誌に紹介するアルバイトにはげみ、自らも少女たちの裸を撮影していた。「ちーちゃん」の「全裸写真」も撮っていた。それがバレて、会社はクビになり、妻からは離婚届をたたきつけられたのだ。

ぶらぶらしている「わたし」を見かねた元同級生が、町の子供クラブが上演する演劇の指導をしてくれないかと頼みにくる。「わたし」は断るのだが、一度だけ顔を会わせた2人組の少女が、個人的に指導してほしいと「わたし」の前に現れる……。

小説を読んでいて、すんなりと読みすすむことができない、炎症を起こした口内で舌先が感ずる違和感のようなものがある。その理由のひとつは、小説にふさわしからざる漢語を多用した地の文章と、その堅苦しい文体で描写される少女チックなアイテムの数々と、いまふうな会話と、異質なものどうしが溶けあうことなく混在していることにあるかもしれない。

例えば、地の文。「彼女――Iの失踪癖は、いちいち腹を割る必要のない気楽な関係性が崩れかけたときにこそ発動されるものではないか。……だが、下手な憶測を開示して誤解の種を植えつけると面倒な事態に発展しかねぬため、わたしはそれをYに告げたことはなかったし、現時点においてもそのつもりは更々なかった」

「発動」とか「開示」とか「現時点」とか「しかねぬ」とか、学術論文かビジネス文書のような単語や言い回しは、いくらでも別の表現ができるはずだ。ふつう、小説のなかで選ばれることの少ないこういう言葉を、だから作者は意識的に使っている。

かと思うと、「わたし」のロリコン趣味を示すこんな描写がある。「だから少しは頭を冷やして、キャンディーやらチョコレートやらが床一面に敷き詰めてある、年がら年中ヒトデみたいなお星さまが浮かんでいて室内にさえ鮮明な虹が架かっている、あのパステルカラーに彩られた奥行きのない世界へさっさとおかえり。それも叶わぬというのならば、直ちにこの俺をぶち殺してくれたまえ君たち――」

その間にはまた、20代30代のしゃべり口調をそのまま活字にしたような会話が差しはさまれる。「やっぱり沢見さんじゃんどうしたの何でこんなとこいるのよみんなあっちにいるよー。ちょっといつぶりだっけすんごいご無沙汰じゃん何か具合悪そうじゃない大丈夫なのそう見えるだけ?」

ひとつの小説のなかに共存できるとは思えない異質な文章が、入れ替わり立ち替わりしながら延々と続いてゆく。その落差の激しさ、堅苦しさとポップな感覚とがないまぜになった空気が、この小説を支配している。

この奇妙な混交はどこから来ているのか。本文のなかで「わたし」が帰ってきた故郷がどこなのか、たった一カ所だけ示される固有名詞に、そのヒントがある。「神町(じんまち)」というのが、その名前。

神町というのは、2003年に発表された1600枚の長編「シンセミア」(朝日新聞社)の舞台となった町の名前だった。

この小説は、戦後、神町という山形県の小さな町を支配した2家族3代にわたるクロニクル(年代記)というスタイルで書かれている(これについては自分のブログに書いた。「読まずに死ねるかっ」のサイトでは「神町サーガ」と呼ばれている)。「グランド・フィナーレ」は「シンセミア」を核とする「神町クロニクル」の一部なのだ。

そして阿部和重が、それまでのポップ一人称小説から一転してクロニクルという形式を選び、歴史と正面から向かいあうために採用したのが三人称で、しかも「発動」とか「開示」とか、それまでの彼の小説には登場しなかったごつごつした単語を多用した文章だったのではないか。

そうした漢文脈で描写された「わたし」の灰色の日常と、頻繁に出てくるロリコンのアイテムと、しゃべり口調をそのまま取り込んだ会話が入り交じって、町田康とはまた別種の、古さと新しさが奇妙に混淆した世界が現れてくる。

「わたし」は「自分自身の先行きなど、もうどうでもよかった」と捨て鉢になる一方で、「ちーちゃんが自ら進んで会いに来てくれる日に備えて、己の生活をまともなものに立て直す意志を完全に捨て去ったわけでもない」。

ジンジャーマンのぬいぐるみを肌身離さず持ち、携帯に入っている1枚きりの「ちーちゃん」の画像にしばしば見入る、そんな「わたし」の日々に突然現れた2人の少女。「茶色がかったセミロングの髪にイエローベースの春の肌色を持つ亜美」と「ロングの黒髪にブルーベースの冬の肌色という容貌の麻弥」。2人はしきりに「最後の思い出」のために芝居をしたいと、謎めいたことを言う。

「わたし」はなけなしの貯金をはたいて彼女たちに協力することになるのだが、「幸福感」と「胸騒ぎ」が交錯する日々がどのような結末を迎えるのかは示されないまま、物語は突然、断ち切られてしまう。

過去の事件がもたらした抑鬱と、未来に起こるかもしれない事件の予兆との間で揺れる日々。この小説が描いているのは、そんな宙づりになった現在であり、それが「神町」という一語によって歴史につなぎとめられている。3代にわたる神町の年代記のなかに、その居場所を定められている。

「シンセミア」では、登場した男たち女たちのほとんどが暴力や犯罪、クスリや不倫の果てに破滅していった。「わたし」にどのような未来が待っているのかは分からないけれど、ロリコンで、徹底した自己中心で、他者にまっとうに向かいあう姿勢がみじんも感じられない「わたし」もまた、「神町クロニクル」にふさわしい登場人物だといえる。

「シンセミア」では、同書が「神町クロニクル」のごく一部にすぎないことが暗示されていた。単行本「グランド・フィナーレ」には、表題作のほかにも2編の「神町もの」が収録されている。「グランド・フィナーレ」は37歳の「わたし」の一人称だけれど、あとの2編は三人称と、作者の「私」の一人称。

「シンセミア」は三人称で次々に視点が変わっていく構成を取っていたから、来るべき「神町クロニクル」の全体像は、さまざまなスタイルと手法を持つ独立した長短の小説群が群をなして織りなす星雲のようなものになるのだろう。

「グランド・フィナーレ」は、そうした巨大なジグソーパズルの、なんとも魅力的な一片だった。

この小説は132回の芥川賞を受けたけれど、「シンセミア」は前年に毎日出版文化賞と伊藤整文学賞をダブル受賞している。「グランド・フィナーレ」が賞に値するのは当然としても、それが芥川賞だったとは、いささか出し遅れの証文みたいな気もする。どう考えてもこれは、綿谷りさや金原ひとみと同列に論じられる「新人」の仕事じゃあない。(雄)

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