書籍名 | 「玉音」放送の歴史学 |
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著者名 | 岩田重則 |
出版社 | 青土社(300p) |
発刊日 | 2023.06.26 |
希望小売価格 | 2,640円 |
書評日 | 2023.08.15 |
毎年のことだが、8月に入ると過去を振り返り、広島・長崎の原爆被災や空襲・引揚などの記事が新聞の紙面を埋める。その悲惨さを再認識するとともに、太平洋戦争の開戦から終戦に至るまでの国家の責任について考えさせられる。本書の冒頭で、太平洋戦争終結は明治維新と現在(2023年)の中間点となると書かれてい、その表現に少し違和感を覚えた。何代かの祖先から両親・自分へと生き継いできたその時代で、各々が様々な思い出を積み上げて時間を過ごしてきた。しかし、戦後生まれの私としては明治の一年と戦後の一年を同じ時間意識で振り返ることは難しいことに気付かされたということだろう。
著者の岩田重則は1961年生まれ。祭祀、火葬、墓制といった視点からの民俗学の研究者である。本書は明治から現代までの時間軸の中で「玉音放送」に焦点を当てて昭和20年8月15日の終戦は何だったのかを再確認するための一冊である。今までも多くが語られて来たが、戦中の歴史は事実もあれば情報の操作で生まれた誤解もある。本書では民俗学の手法でもあるフィールド・ワーク的に、内閣情報局をはじめとした軍官の文書、全国の新聞をはじめとしたメディアの報道記事比較、入江相政、木戸幸一など政治・宮中に係わった人々の日記にはじまり、作家や庶民の日記などを引用しながら、事実の断片を集めて歴史の隙間を埋めて行くことで8月15日の全貌を描き出している
「玉音放送」とは、大日本帝国憲法で規定された天皇の大権で、戦争終結を「聖断」し、それを公文書「詔書」を公布、臣民(国民)に向けて「命令」するという昭和天皇の権力発動だった。しかし、多くの日本国民は「聖断」と「玉音放送」を権力発動だという受け止め方ではなく、逆に天皇による恩恵であるかのような「共同幻想」が国民の中に生まれていたと著者は指摘している。この原因を君主制における「権威」の存在としている。日本で言えば「万世一系」「三種の神器」といった根拠によって天皇の「権威」は創出されている。明治維新前から徳川側と薩長側はともに天皇の「権威」を掌握することが権力奪取の必要条件であると理解していた。その「権威」を大日本帝国憲法で「天皇は万世一系の統治権を持ち、国・国民を統治する」と成文化するとともに、「無答責」として法的に天皇は問責されることは無いとされていて、「神聖」と表裏一体の考え方で成り立っている。しかし、戦争を開始することも終結させることも天皇の大権であることから、その責任とは何なのかについて戦後語られて来た歴史も忘れてはいけないと思う。
太平洋戦争も開戦から2年半が過ぎ、転換点となった1944年のサイパン陥落(7月7日)、東条内閣総辞職(7月18日)、グァム島玉砕(8月21日)と続く中で戦争終結派が徐々に形成されていったと著者は見ている。その一人であった近衛文麿元総理の日記では「速やかに停戦すべしというのは、ただただ国体護持のためなり。昭和天皇は最悪の場合、退位だけでなく、連合艦隊の旗艦に召され、艦と共に戦死いただくのが我が国体の護持」とまで語っている。また、東久邇宮は「東条に最後まで責任をとらせる方が良い。そのためにも総辞職させない」と述べているのを読むと、国体護持と戦争責任論が戦争終結派のなかで渦巻いていたのが良く判る。
1945年となり、本土空襲など戦局が追い詰められて行く中、昭和天皇は1945年6月22日に東郷外相との面談記録の中で「速やかに戦争を終結させる」と発言したとされる。これが「終戦」についての天皇の初めての言葉のようだ。以後終戦までの2ヶ月を時系列で見ると、7月26日に連合国からポツダム宣言が発せられ、8月6日広島に原子爆弾が投下される。軍は即日、物理学者の仁科芳雄を広島に派遣し原子爆弾であることを確認しているが、内閣情報局は8月7日午後に朝日、毎日、読売や同盟などのマスコミ各社を集めて「今までの爆弾とは違うようだが情報が無いので通常の都市爆撃として報道する様に」と指示している。
8月9日長崎への原爆投下。同日最高戦争指導会議が開催され、鈴木総理大臣が国体護持を条件としてポツダム宣言受諾を提案したものの、阿南陸軍大臣が反対したため合意に達せず、昭和天皇は「米英軍に対して勝算なし」としてポツダム宣言受諾を聖断した。8月10日は「天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラザルコトノ了解ノ下・・」という微妙な言い回しをした受諾文を連合国に伝える。対して国内では「徐々に国民をポツダム宣言受諾に誘導する」という戦術でボツダム宣言を伝えることは無かった。
8月12日に連合国側から返答があり、その中で国体に関しては「占領解除後の国家形態は日本国民の決定による」と言うものだった。これを前提に、8月14日天皇が召集した最高戦争指導会議+閣議で昭和天皇は「戦争継続は無理。国体については疑義もあるが、この回答文を通して先方は相当好意を持っていると解釈する」として受諾を聖断する。
8月14日午後11時に受諾詔書は公布され、同時に外務省から連合国に英文の通知文として送付されている。国内向けの詔書の骨子は「開戦は自衛のためであり、アメリカが原子爆弾を使用し日本国民だけでなく世界文明の破壊が予想される、歴代天皇に謝する術もないことから、国体護持のもとポツダム宣言を受諾する」というもので国民や戦没者に対する謝罪も天皇としての責任にも言及することは無かった。一方、連合国向けの英文には「原子爆弾」と「国体護持」に関する記載はなく、ポツダム宣言をそのまま受諾して武装解除と戦争終結文書に調印することを約束している。こうした二重規範の中で「玉音放送」が実施される。
玉音放送は14日午後11時25分から宮内庁で録音され、翌15日正午から放送された。そして予定通り放送終了後、街頭で新聞は販売され「8月15日の宮城前で御詔勅を拝し、陛下お許し下さいませ。我ら足りませんでした」という同文の記事が複数の新聞に掲載されていることからも、情報局からの情報管理・原稿提示があったことが判る。そして、このシナリオの締めくくりは、8月16日発足の東久邇内閣による所信表明演説であった。その中で「陛下に対し奉り、誠に申し訳なき次第」と昭和天皇への懺悔を繰り返した。そして、戦争終結に至った「責任」について記者から問われると、敗因にすり替えて「戦力の急激な低下・原子爆弾の出現・ソ連の参戦・国民道徳の低下」を挙げている。権力と責任を隠し、権威を前面に出して「一億総懺悔」を語っている。「国体護持」プロパガンダの最終稿である。
本書を読んで、私なりに気になった点を取り上げてみると、
1点目は、昭和天皇独白録の中で、8月12日の皇族会議で朝香宮が天皇に「国体護持が出来なければ戦争を継続するのか」と質問したところ、「私(天皇)は勿論だと答えた」と記されている点である。戦争終結の聖断は国体護持の為であり、国体護持が連合国から認められなければ本土決戦も辞せずとの決意だ。国民の生命を守る為でも、平和のためでもないと言い切っている。
2点目は、御前会議・最高戦争指導会議のあり方である。支那事変期(1938年)から太平洋戦争終結までの8年間で15回開催されている中で、天皇の発言があった会議はたった2回である。加えて、最後の会議(8月14日)だけが天皇による召集で、残り14回は大本営・内閣の召集である。御前会議とはまさに担がれた権威によって運営されていたことが判る。
3点目は、広島原爆被爆者の原民喜が玉音放送を聴いた感想として「もう少し早く戦争が終わってくれていたら」と語っているのが心に刺さる。7月26日のポツダム宣言に対して、その受諾を連合国に通知したのは8月10日。広島への原子爆弾投下の5日後の事である。あと一週間早く聖断してくれていたら、20万人の命が奪われることはなかった。
著者はいろいろな事実を二者択一的な正誤と解釈するよりも、そうした事象を歴史の記憶として留める意味を語っている。確かに、今だからこそ多くの断片的な情報も集めて俯瞰することが出来る。その時点では全てを見て考え、行動出来る訳ではない。加えて情報も時として事実であるかのように無差別に流れて来る。それは現在の我々が直面している状況と同様かも知れない。ポツダム中尉で終えた親父に「玉音放送」をどう受けとめたのかを聞いてみたかったと今更ながらに思う、そんな個人の無力感もある8月という季節だ。(内池正名)
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