化粧の日本史【山村博美】

化粧の日本史


書籍名 化粧の日本史
著者名 山村博美
出版社 吉川弘文館(221p)
発刊日 2016.05.20
希望小売価格 1,836円
書評日 2016.07.19
化粧の日本史

電車に乗れば、混雑した車内で一心不乱に化粧をしている若い女性がいる。化粧が身だしなみであり、周りの人達に対しての気配りだとしたら、その工程を周囲の人達に見せてしまうというのは自己矛盾だろう。そんな、昨今の状況にいささか戸惑い、辟易としている中での化粧に関する読書に挑戦してみた。

本書はタイトル通り、古墳時代から現代にいたる日本において、化粧がどんな意味を持ち、時代と共にどんな変化をしてきたのかをまとめたもの。化粧とは夜眠る時には落としてしまうという一過性の行為の繰り返しということもあって、時を超えて物的資料が残っていることは少ないという。

従って、化粧に関する資料としては、文学、絵画、芸能、風俗といった各分野での断片的情報を集め、組み合わせることで化粧の歴史の全貌を描き出す必要がある。そうした、地道な作業の積み上げを必要としていることから、学問として注目度は低かった様で、その意味からも本書は「化粧の通史」として挑戦的な一冊といえそうだ。

本書は古墳時代から現代までを大きく三つに区分して構成されている。古墳時代から平安前期を第一期として、中国をはじめとする海外からの新しい文化を受け入れて大陸風の化粧が導入された時代。平安中期から江戸を第二期として、化粧方法も日本人の美意識に合う形に変化しつつ、長い時間をかけて確立した伝統化粧によって、身分や年齢、未既婚、子供の有無といったことを区別する社会的機能を持たせた時代。

次に、明治から現代までを第三期として、先進国の欧米列強追いつかんがため、明治政府はトップダウンで化粧を含む髪型、服装といった風俗全般に欧化政策を進めた時代であり、その流れは戦後も続いているという見方だ。こうした、通史としての全体俯瞰をベースとして時代毎の化粧の状況が客観的に述べられていることもあり、化粧のことに疎い評者のような人間にとっては、未知の領域の手引書として判りやすさも本書の魅力の一つである。

次に、時代毎のトピックスでは、日本史の教科書的知識として知っていた、おなじみの絵画等が化粧を分析的に読み解く資料として登場してくる。

古墳時代から奈良時代を知るために、高松塚古墳の壁に描かれた「女子群像」や正倉院の「鳥毛立女屏風」に描かれている女性が語られる。ポッチャリ型で太い眉、束ねて丸く巻いた髪型、上着とスカートが分れている服装など、中国唐代の典型的な女性像が描かれていることからもこの時代の大陸の影響の強さが説明されている。すでにこの時代には日本の化粧の基本三色(紅・白・黒)が確立していたというのも注目点。

平安時代になると、唐風から国風への転換点となる。遣唐使の廃止や藤原一族による摂関政治の確立と国政の安定によって、新しい美意識が生まれ、典型的なものとして源氏物語絵巻に描かれている「夕霧」が挙げられている。細面で細い眉、長く伸ばした髪、十二単といったスタイルは「唐風」からの決別を表現している。また、この時代には、武家であった平家一族が公家を真似て化粧を始めたが、この風潮は、たたき上げの武家であった豊臣秀吉でさえ、小田原征伐の際はお歯黒をしていたようだし、続く「吉野の花見」では眉まで描いていたと言われている。

江戸時代になると、公家と歌舞伎役者を除いては、武家諸法度での倹約令もあり、男性の化粧の風習は無くなったが、女性の化粧の基本色(紅・白・黒)は変化なく続いていた。しかし、お歯黒は現代人からすると奇異に感じられ、時代考証に関係なく現在のテレビドラマや映画の時代劇でもお歯黒女性が登場することはない。当然だが、宣教師や開国とともに来日した外国人たちも「黒の化粧(お歯黒)」に驚き、醜悪とさえ感じていたようである。宣教師のフロイスを始めとした、多くの西欧人による文献が本書でも紹介されている。

この時代、「女重宝記」(1692年)などに書かれている様に、化粧そのものは否定されるものではないが、濃い化粧は批判され、薄化粧すべしとの考えが一般的であったようだ。一方、中世から17世紀までのヨーロッパでは化粧は虚栄とみなされ、キリスト教会から化粧が否定されていたという対照的な状況だった。

こうした江戸時代も後半になると美白という化粧の主流に対して「修整化粧」という発想が出てきたとのことである(都風俗化粧法-1813年)。ここで指摘されている、修正すべきとされた点は色々列挙されているが、その内で気になったのは「大きすぎる目」と指摘されていることである。時代による美意識の違いは多くの点で大きな差があることは判っているつもりでも、こうして指摘されてみると、そのギャップの大きさが痛感させられる。

 明治期になると、明治3年の華族に対してお歯黒・眉剃り禁止、明治4年の断髪令、明治5年の文官の洋装を定めている。こうした政府の欧化政策の結果、化粧・髪型・服装といった分野で変化が急激に起こった。最後まで伝統化粧が残っていた皇族も明治5年3月3日に、皇太后・皇后の眉墨とお歯黒がやめるとの発表があり、日本化粧史の大転換点がこの時期に当たる。

大正に入り、和からモダンへと変化する美意識は、人々の生活が豊かになって来たこと、職業婦人としての社会進出などに後押しされ、洋風化粧も一般女性に浸透していった。この時代の化粧に対する考え方は、「自分の好みに僻するよりは他の人を満足させる為でなくてはならない」という社会規範としての化粧観が強まって行ったようだが、この考え方は評者の個人的感覚にすこぶる合致するものだ。大正末期にモダンガールが出現したが、当時は女性の洋装はまだ珍しく、女性の断髪も白い眼で見られていた。モダンガールでいるためには、かななり強い意志が不可欠であり、彼女たちにとっては「他人の眼」「身だしなみ」といったことを第一に考える化粧意識をすて「個性美」という自己表現に向けて歩き出したことになる。

また、第二次大戦後に蛍光灯の一般化が進んだことで、蛍光灯の演色性が悪く青色が強く出てしまうことから肌色がくすんで見えてしまうという問題があったという。そこからピンク色系の化粧品が多く商品化されたというエピソードはメーカーの努力とともに、その流れの商品を求める女性たとのパワーに圧倒される事実だ。昭和30年代はこうして、カラーと立体化粧と称されるメーク技術が進みモデルも黒い髪と黒い瞳は日本人、彫の深い目鼻立ちは西洋人というハーフモデルが起用される。昭和40年代は史上初となる「美白」と真逆の「小麦色の肌」という健康が前面に出され、昭和50年代は個性重視の時代に突入していった。

「なりたい自分になるためには見た目も重要」というアメリカ流価値観が定着していく。こうした状況を読んでいると、文化とビジネスの水面下の握手というか、双方の深い連携が見て取れる。一方、こうした傾向は女性の化粧やファションという領域に止まらず、政治家のイメージ戦略を指南するコンサルタントやプレゼンテーション・テクニックを教えるなど、身振り手振りまで大衆に受け入れられやすい見た目が議論される時代になったことにも繋がっていく。そして、著者は現在の美意識をこんな言葉で結んでいる。

「もはや化粧できれいになることは隠すことではない。美しさを獲得する努力のプロセスを含めて、見せて語って賞賛されるものへと、さま変わりしたといえるだろう」

時代は変化し、美意識も変化して行くのは理解できる。一方、「みだしなみ」という概念も捨てがたい。それが全てであるべきとは言わないまでも、基本としては「みだしなみ」が必須というのは時代錯誤なのだろうか。本書を閉じて、「化粧」については男にはなかなか理解し難い闇の空間があるようだ。まるでお歯黒の口のように。(内池正名)  

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