ケネディという名の神話【松岡 完】

ケネディという名の神話


書籍名 ケネディという名の神話
著者名 松岡 完
出版社 中央公論新社(320p)
発刊日 2023.10.10
希望小売価格 2,090円
書評日 2023.12.15
ケネディという名の神話

著者は1957年生まれと言うから、ケネディ(JFK)が銃撃された映像をまざまざと記憶している我々団塊の世代とは10才程若い世代である。また、国際関係論・アメリカ外交史を専門としていて、特にベトナム戦争に関するアメリカの政策に批判的な視点を持つ学者であることから、JFKの時代に対する世代間の違いや専門家としての厳しい視点に興味を持って本書を手にした。

JFKはアメリカ史上で最年少(43才)且つ、カトリック信者として初めての大統領になった人間だ。現在のギャラップ調査でも政治としての人気は圧倒的に高い一方、政治学者達からの評価は大きく分散しているという。こうした多様なJFKに対する評価は1037日という短い大統領任期とともに、衆人環視のもとで暗殺されたという衝撃も影響しているとの考えなども前提としたうえで、著者は本書を書いたとのこと。

本書は大きく3つに分れている。第一章は「ホワイト・ハウスへの道」と題して学生時代から、戦後政治家として活動し始めた時代。第二章は「多事多難な一千日」と題して大統領から暗殺されるまでの1037日間を、第三章は「甘い追憶の日々」と題して、暗殺後のケネディ家の人々の生活や政治活動などを描いている。

JFKの父ジョゼフの存在の大きさも再認識させられた点の一つだ。彼は金融・造船・不動産業で財をなし、ルーズベルト大統領選で応援した見返りで証券取引所長に就任し、1938年に駐英大使になっているが、そうした表の顔だけでなく、マフィアとの繋がりも持っていた。JFKのハーバード大の卒業論文は父が金を出しニューヨーク・タイムズの論説委員が手を加え、タイム誌の編集長が序文を書いて出版している。また、海軍での任務について「駐英大使の息子が危険な任務に挑み部下の救済に貢献した」という記事をAP通信やUPI通信から発信させなど、後にJFK自身が「ペンの力」で英雄的行為になったと語っているように、作られたベストセラー、作られたイメージに乗っかって政界への道を辿っていったことが描かれている。

父からの豊富な選挙資金をベースに1946年の下院選挙で当選、1952年に上院選で当選した。1960年7月の民主党大会で候補指名を受け「ニューフロンティア」演説で「古い時代は終った」と言い切り、共産主義の対峙、核兵器装備のリーダーシップ、貧困への対応などの政策を語っている。この大統領選挙は冷戦下でアメリカの国家としての威信が低下しつつあったことから、外交問題が争点として戦われた米国史上例外的な大統領選挙だった。

新政権のスタッフは閣僚の平均年齢が47才、最若手は弟のロバートが35才で司法長官についている。そして、就任式の国歌斉唱は黒人女性のマリアン・アンダーソンが歌い、JFKは「国が諸君のために何をなしうるかを問うのではなく、諸君が国のために何をなしうるかを問いたまえ」と演説をして、新しい時代を印象付けている。

しかし、JFKの大統領としての1037日はソ連との冷戦、宇宙開発競争、ベルリン危機、キューバ危機、開発途上国家の革命といった多様な国際問題に加えて国内の経済問題、公民権問題に対応するという激動の3年間であった。1961年6月に早くもソ連のフルシチョフと首脳会談を行ったものの、1962年10月にキューバのミサイル基地をU2偵察機が発見する。JFKはこのミサイル配備をフルシチョフからの挑戦状と受け止めたJFKは10月22日にキューバの封鎖を決定する。カストロは先制攻撃をソ連に求めた。しかし、10月26日に非公式チャネル(いわゆる秘密外交)でソ連はキューバからミサイルを撤去するので、アメリカはキューバに侵攻しないことと、トルコに配備しているミサイルの撤去を求めた。そして、10月28日両国は合意に達する。この一週間、一発触発の状況の中、アメリカとソ連両国の危機管理の際どいせめぎ合いで世界の危機は回避された。ただ、そもそもアイゼンハワーの時に、アメリカがトルコにモスクワを射程とするミサイルを配備していたことこそソ連に対する挑戦状だったということを忘れてはいけないのだろう。

もう一つ、JFKが邁進したのが平等化社会実現のための公民権運動である。1962年半ばにミシシッピ大学がアフリカ系青年の入学申請を拒否。しかし、連邦巡回裁判所がこの学生の入学を命じたが、大学は混乱状態となり死者も出る中でJFKは州兵を連邦軍に編入するとともに大学に派遣する。ワシントンポスト紙は「南北戦争以来最大の試練」と伝えたが、JFKの後退しない姿勢が明確であった。そしてJFK暗殺の2ヶ月前の1963年8月28日のキング牧師率いるワシントン大行進が行われ「私には夢が有る」という演説が行われる。公民権の法制化はJFK死去後も弟ロバート司法長官が成立に尽力して1964年7月に成立する。

1963年10月22日ケネディは大票田のテキサスを訪問する。公民権法案の提出でJFKの人気は低かったが、副大統領のジョンソンの地元だ。しかし、パレードの車列が通る道には大勢の人々が溢れていた。12時30分に銃声が響きJFKはパークランド病院に搬送され、13時に死亡が確認された。14時38分副大統領のジョンソンは大統領就任宣誓を行い、横にはジャックリーンが亡夫の血に染まったスーツのまま無言で立っていたという。日本ではこのニュースは史上初の日米衛星中継で被弾の瞬間をとらえた30秒間の映像とともに放送された。そして、犯人のオズワルドが拘束されて二日後に警察署を出た時、マフィアのジャック・ルビーに射殺された。何故を考える以前に、これらの映像を映し出す茶の間のTVに釘付けになっていたのを鮮明に思い出す。

事件の一週間後に最高裁長官のウォーレンのもとで調査委員会が召集され、ほぼ一年後の1964年9月28日「ウォーレン報告書」が提出される。この報告書は陰謀を巡る無責任な噂を消し去り自由と民主主義の国というイメージを回復することにあった。しかし、その後の三年間で重要な証人が少なくとも18名が射殺や自殺などで死亡している。またJFKの検視のX線写真などが消失しているというのも、ケネディ家の病歴等を人目に触れさせたくないという意向とのことだが、これも現存するが公表しないのか、消失したのかは定かではない。こうした事も陰謀論が後を絶たない理由なのだろう。

JFKはニューフロンティアを体現する人物として仕立て上げられてきた。一方、病弱であり、脚色された戦場話、著作の代作、女漁等の噂も流れ続けている。それでもJFKが輝きを失っていない理由を著者は次の様に語っている。

「クリスマスツリーは派手な飾りに目を奪われがちだが、それを支えるモミの木があるからこそ華麗な姿を誇ることが出来る。飾りを全て取り除いたときにモミの木の真の姿が見えて来る」

しかし、JFK死後60年の現在、アメリカはアフガニスタン、ウクライナ、パレスチナといった紛争解決への指導力を発揮していないし、代わりの国もその役割は出来ていない。その閉塞感が蔓延しているのが実態である。国家間のリーダー達による対話も具体性が見えてこない。

JFKについて、若い大統領というイメージとともに、映像による記憶が鮮明である。16才のとき高校一年の時だった。あの衛星中継の銃撃の30秒やオズワルドが警察に拘束されている中での銃撃などは言葉を超えた圧倒的な映像記憶である。そして、「ウォーレン報告」がアメリカで公表された一か月後に日本語訳が「ケネディ暗殺の真相: ウォーレン報告」と題して刊行された。高校二年生の私は即刻購入しているように、当時の若者から見てもJFKの暗殺は大きな影響を持っていたと思う。そして、今も本棚の一角を占めている「ケネディ暗殺の真相」を手にすることになった読書だった。(内池正名)

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