玉音放送を命にかえても【土田未生】

玉音放送を命にかえても


書籍名 玉音放送を命にかえても
著者名 土田未生
出版社 岩波書店(256p)
発刊日 2025.11.29
希望小売価格 2,970円
書評日 2026.02.17
玉音放送を命にかえても

戦時中に日本放送協会の報道部の実質責任者だった柳澤恭雄は大本営発表の戦況放送や終戦の玉音放送の当事者であり、「戦争宣伝放送に従事したことに対する反省が戦後の生き方を決めた」と語っているように、戦後レッド・パージで退職を余儀なくされると中国の北京放送に勤め、その後帰国して映像取材メデイアとしての日本電波ニュース社を設立するという経歴。放送の現場で生き続けてきた柳澤は2007年に97才の生涯を閉じるが、本書は90才台になった柳澤とのインタビューの記録である。そして本書の副題「日本のいちばん長い日・外伝」とは、1967年東宝が映画化した「日本のいちばん長い日」の中で「反乱軍リーダーの畑中少佐がアナウンサーに銃口を突き付けているが、畑中が銃口を突き付けたのは報道部にいた私に対して」と事実との相違を明らかにしたい柳澤の思いが示されている。柳澤は1909年京都生まれ、旧制浦和高校から東京帝大文学部に進学し、新聞研究会に所属する。1938年に卒業しジャーナリストを目指すものの就職先は新聞ではなく、当時唯一のラジオ放送局だった日本放送協会(以下協会)だった。その理由は、2.26事件で「兵に告ぐ」で始まる帰順を命じるラジオ放送が流された結果、活字にはない即時性と臨場感で1500人の反乱軍は鎮圧収束に向かったと言われており、ラジオの新しいメディアとしての将来性に柳澤は惹かれたからという。

日比谷の放送会館を拠点に協会の報道部に属し放送に携わるが、独自取材は出来ず、放送する原稿は国策会社の同盟通信社の記者が取材した原稿を元にして放送用に口語体に変えた原稿を読むだけで、ニュースの真偽を確認することも出来ない状態だった。また、新聞各社は陸・海軍情報部からの情報を記者クラブ経由で得ていたが、協会は記者クラブ加盟を許されていなかった。その理由として、その日の情報をすぐに放送できるラジオは新聞各社にとって大きな脅威だったという見方も納得がいく。同時に、軍としてもラジオ放送の力を理解しているが故に放送を支配下に置く必然性があったのだろう。柳澤は多くの事実と裏腹な放送を続けていたことを振り返り「職業的責任感が染み込んだ無責任」との思いだけでなく、「沈黙の自由もない」という柳澤の言葉が時代の厳しさを表していると思う。

しかし、そうした管理下において柳澤のジャーナストとしての挑戦もいろいろやっていたようだ。その一つが1944年7月の「世界の戦局」という解説番組で柳澤は「武士道の葉隠」の説明を隠れ蓑にしてサイパンが厳しい戦況にあり、本土も危ないという趣旨の放送をした。軍の検閲を逃れるためにかなりぼかした言い回しをした結果、軍からは文句が出なかったものの国民の反応は判らなかったという。ただ、当時大本営情報局は連合国側のラジオ放送を傍受した記録を「敵性情報」と題して協会に定期的に送ってきていた。この資料の中にアメリカ側の日本向け放送(VOA)が柳澤の放送について「日本の国家放送がついに屈服の可能性を報じた」と記載されていたと判り、アメリカ側は柳澤の放送意図を正しく受け止めていたことが確認できたという。まさに皮肉としか言いようがないエピソードだ。

1945年7月26日にポツダム宣言が発せられた。この情報に対して内閣情報局の指示は「27日のニュースでは、小さく扱い、過剰な反論もしない」というものであったことから、この放送を聞いた国民はボツダム宣言を「最後通告」とは受け止めなかった。一方、この協会のニュースを傍受したアメリカは「日本は最後通告を黙殺した」と報じることになる。8月6日広島原爆投下、9日ソ連参戦、長崎原爆投下という怒涛の日々を経て、米国からの「天皇制は否定しないが、ポツダム宣言に変更はない」との返答に対して、14日の御前会議で天皇がポツダム宣言受諾を聖断するとともに、事前に内閣情報局から上奏されていたラジオ放送で天皇自らが国民に語り掛けるという「玉音放送」を承認したことで、放送の役割がもう一段重要性を増したことになった。

14日の夕刻、陸軍報道部に協会から嘱託派遣していた平井政夫から柳澤に「行きますよ」という一言の電話が入る。これは事前に示し合わせていた一言だったので、柳澤は反乱将校による放送会館襲撃を覚悟したという。玉音放送に向けての準備は、夜7時のニュースで「あした重大放送がある」という予告を流し、宮内庁の臨時収録スタジオで午後11時30分から天皇による読み上げが行われ午後11時50分に収録完了して録音盤二枚は宮内庁に保管された。陸軍省の畑中少佐を中心とした反乱軍は宮内庁の録音盤を見つけられなかった。日付が変わり、15日午前4時畑中少佐たちは放送会館に乗り込み報道部で柳澤にピストルを突き付けて「抗戦・決起」の放送実施を迫る。しかし、偶然にも「警戒警報」が発令される。「警報」発令中の放送管轄は東部軍管区にあるため、直接東部軍参謀長と交渉するしかない柳澤は畑中に伝える。これも偶然だが森参謀長は畑中が士官学校時代の教官だった。畑中は森参謀長と長々と話した結果、説得されて「抗戦・決起」放送をあきらめることになり、軍は「玉音放送援護」で行動を統一する。まさに、警戒警報発令と人間関係の偶然が「玉音放送」実現を支えていたことに歴史の微妙さを感じる。

柳澤は放送会館二階の報道部で正午からの玉音放送を聞いていたが、この放送は会館からスピーカーで街頭にも流されていた。「外を見ると人々が立ち尽くして聴いている。激動を終えた今、人々を眺めている私の心は虚ろだった」と言っているように、まさに「命を懸けた玉音放送」だったのだろう。柳澤は協会を退職するか、長年渇望していた自主取材の実現をかけて協会で働き続けるか悩んでいた。9月2日ミズーリ号で降伏文書調印式が行われたが、その時GHQから代表取材として「プレス1名、ラジオ1名」と伝えてきたことに柳澤はラジオ放送がメディアとして認知されていることを実感し協会での活動を覚悟した。しかし、冷戦の幕開けとともにGHQの右傾化が進み1950年レッド・パージが始まる。柳澤も退職の対象となり、密出国で中国に渡り北京放送局に8年間従事したのちに、天津からの最後の引揚船に乗って帰国している。そんな経験をした柳澤の目に映る1960年頃の日本のテレビの状況は「西側のニュースだけを扱っており、これでは世界を片目で見ているようなもの」と感じ、1960年に日本電波ニュース社(NDN)を創設し、自ら海外での取材に奔走する。NDNは西側メディアとして唯一北ベトナム支局開設を許可され、1966年12月NDNが撮影したアメリカによるハノイ爆撃が、はじめての北爆映像として配信された。しかし、この映像はアメリカでは放送停止とされ、日本ではTBSで「田英夫の証言(ドキュメント・ハノイ)」という番組で放映されたが、これに対して自民党からTBSにクレームが入り田はキャスターを降板させられる。私の個人的な体験としてはこのあたりから思い出として記憶があるが、柳澤のジャーナリストとしての活動史の最終章だったということだ。

柳澤は日本を拠点とするジャーナリストが取材報道する必要性を訴え続けてきた。それは過去の歴史の一幕としてではなく、いつの時代においても世界を俯瞰するためには各国の状況理解が必須であると同時に報道の真実を見抜く力を受け止める側の我々には要求されている。政治家たちの語る言葉の虚ろさがあからさまになっていく中で我々の責任も重い。(内池正名)        

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